あなたが習ってきた日本の歴史が、また新たに更新されることとなりました。
日本史にさほど興味のない人は「あらら、また歴史覚え直しか。」くらいならものかもしれません。
しかし、筋金入りの日本史ファンなら「うっはマジか!ワクワクすっぞ!」とこらえがたい感情の高鳴りに、小躍りしそうなニュースです。
なんと、本能寺の変10日後に明智光秀が書いた書状原本が発見されました。
本能寺の変で少し前に話題となって動画を思い浮かべる人も多いようなのでおさらいも兼ねてご覧ください(笑)
さて、気を取り直して、その書状の写真は一体どんなものなのか、内容は何が書かれているのか、早速見ていきましょう!
明智光秀が書いた書状原本の画像は?
出典 明智光秀の書状=美濃加茂市民ミュージアム
上の画像が、明智光秀が書き残した書状の原本です。
他人の手紙を盗み見るようで背徳感がありますし、時代によっては殺されていたと思いますが、もう見てしまったものは仕方ありません。
内容は、本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本だったようです。
この画像をみただけでは「ちょっとなに言ってるのかわかんない」というのが本音ですが、貴重な資料だということは察しがつきます。
間違っても寺と一緒に燃やしていいものではありません。
では、その気になる内容は一体どういったことが書かれているのでしょうか?
明智光秀が書いた書状原本はなんて書いてあるの?
本能寺の変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としています。
書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられ、「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」と記されています。
京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいました。
義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容といいます。
畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書と専門家は見ています。
発見された書状の現代語訳は?
明智光秀の書状の現代語訳本文は以下の通りです。
仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。
一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。
一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。
一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。
◆追伸=書状では冒頭にあり
なお、必ず(将軍の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。委細につきましては(私からは)申し上げられません。
訳・藤田教授
簡単に要約すると、「あ、土橋重治くん?俺、明智光秀だけど、本能寺の変を起こしたのってぶっちゃけ室町幕府の再興が目的なんだよね。」
ということを伝えるべく書いたもののようです。
本能寺の変に関しては、様々な憶測が飛び交うなか、今回の書状は間違いなく日本史に大きなインパクトを与えるものとなりました。
全然違うこと考えてた学者さん、お疲れ様でした、真相解明おめでとうございます!
本能寺の変とは?
天正10(1582)年6月2日、京都の本能寺に宿泊中の織田信長が謀反した明智光秀に襲われ自害しました。
信長は羽柴秀吉の毛利攻め救援で出陣する途中のことです。
秀吉は急いで引き返し、京都・大阪府境で起きた山崎の戦いで光秀を破りました。
光秀の動機は信長の隙(すき)に乗じ天下を狙った「単独謀反説」や「怨恨(えんこん)説」など諸説あります。
しかし今回の書状の発見で、「室町幕府の再興目的説」が最有力となったのは言うまでもないでしょう。
明智光秀の書状原本発見にネットの声は?
明智光秀が本能寺の変を起こした動機、あれやこれやいろんな説があるけどどれも
「それにしてはこの行動はおかしいぞ・・・?」
とかなる部分があったりして、個人的にはなんやかんや明智光秀ヤンデレ化
「大殿が私の物にならないなら殺しちゃうもん!」
に一番説得力を感じるマン— 竹光からま@特殊性癖ではない (@takemitu37) 2017年9月12日
本能寺の変についてなかなか興味深い記事を見た( ^ω^)歴史上の出来事に新しい発見があるとワクワクしてしまうっ♪
— ますみん*゚ (@masumin0818) 2017年9月12日
明智光秀が主君・足利義昭の為に本能寺の変を起こしたという説を検証するには、まず十兵衛光秀が本当に室町幕臣だったのかどうかを追求しなきゃならないわけでね。室町幕府派ですけど、「新史料きたー(゚∀゚ 三 ゚∀゚)ー!」って手放しに喜べないし、これを基点とした検証大変だなぁと(遠い目)
— 天河真嗣@スーパイ・サーキット始動 (@tenkawa_shinji) 2017年9月12日
10年前の日本史と今の日本史を比べたら、えらいことになりそうですね。
教える先生も、常に最新の歴史を勉強しておく必要がありそうです。(超情報化社会おそるべし)
本能寺の変がなぜ起こされたのかについては、これまで「単独謀反説」や「怨恨(えんこん)説」など、たくさんの議論がなされてきましたがようやく終止符となりそうです。
過去におきた出来事を1つ1つ集めて組み立てて歴史が見えてくる光景はまるでパズルのようですね。
違和感のあるピースが一つ整うだけでも見える景色はまた違ったものとなってきます。
これからも研究してくれている学者さん達に感謝しつつ、その結果を楽しみにしましょう。
たまには時空をこえて、歴史振り返ってみるのも一興です。